今回は日本でesportsが何故流行らないのかということについて触れてみたいと思う。
日本人はゲームが嫌いなのだろうか?
答えはNoです。
日本ではesportsが受け入れられる素地はあると思います。
何故なら、現状日本ではプロゲーマーがそれなりの社会的ステイタスをもって受け入れられているからです。
社会的ステイタスを持っているプロゲーマーとは将棋のプロ棋士のことです。
既に生ける伝説となったプロ棋士の羽生氏の年収は1億円以上ということですから、日本でプロゲーマー=プロ棋士を目指そうという子供達がそれなりにいるのは納得できるでしょう。
将棋には全国に会館があり、若手の育成にも余念がありません。
逆に将棋があるが故に、日本ではesportsが受け入れられてないのかもしれません。
同じゲームに協賛するのであれば、すでに知名度が高い将棋のスポンサーになったほうが企業としてもメリットがあります。
ゲームの文化
ゲームセンターがあってゲームはお金を入れて遊ぶのが常識だった昔はゲームセンターの管理人は社会から落ちこぼれた人がやる信用できない人の職業でした。
例外はあると思うし、異論もあると思うが、全体の平均としては私の周りではそうだったし、少なくとも優秀な人がなるものではなかったと思います。
いい加減であるが故に子供たち、若者たちに対しても緩く、それなりのコミュニケーション力のあるものは人気があったように思います。
当時のゲームセンターは不良のたまり場であり、街の繁華街にあるいかがわしさの象徴でした。
この傾向は家庭用ゲーム機が進化して、ゲームセンターが下火になった現在も連綿と続いているところはあると思います。
このいかがわしさ=ゲーム文化という側面が、女性が寄ってこない原因だと思います。
女性がゲームをやるのが一般的になったのは家庭用ゲーム機がそれなりに進化した後のことだったので、この「いかがわしい場所」というレッテルがいかにマイナスに作用していたかわかると思います。
ナムコやセガ、タイトーと言った90年代まで直接ゲームセンターを運営するような大手は家庭用ゲーム機が進化してゲームセンターにおいてあるいわゆる「ビデオゲーム」が下火になるまで、このいかがわしさというものを徹底的に排除するという行動は出来なかったように思います。
そして、日本において競技性のあるゲームというのはこのゲームセンターのゲーム(アーケードゲーム)が主流でした。
家庭用ゲーム機においては現在もそうであるが、しばしばゲーム性よりも物語が優先され、子供(だけではないが)に夢を見せるもの=ゲームと定義されたように思います。
この、競技性のあるゲームの置かれた環境がある意味、日本においてesportsのイメージを決定的につぶしてしまう原因になっているように思います。
そして家庭用ゲーム機では、ゲーム性よりもストーリーが面白いゲームが大作とされ、価値があるとされました。
ここで敢えて名前は挙げませんが、誰でも知っている大作ゲームがナンバリングタイトルとして発売され続けることによって、ゲーム=ストーリーという図式が男女の子供たちの中に作り上げられていきました。
そういう子供たちが大人になった今、ゲーム=競技と言われてもピンとこないのは当然だと思います。
そしてゲーム機の性能が上がるにつれてゲームは莫大な開発費がかかるようになり、冒険が出来なくなりました。
ゲームセンターに置いてあった時の様に、「じゃあ、競技性のあるゲームを試しに作ってみようか」とはならなくなりました。
グローバル化によって先祖がえりを起こした若手ゲーマーたち。
しかし、海外においては、もともとファミコンの時代からクレー射撃系のゲームが人気があったことなどもあり、一人称視点のシューティングゲーム=FPSが莫大な人気を博すようになりました。
ゲームセンターというたまり場を追い出された日本の競技性の高いゲーム達は一旦は滅んで家庭用ゲーム機で細々と続いたように見えたが、海外でインターネットの中で独自のコミュニティを築きながら、日本に逆輸入されるようになりました。
この、逆輸入という言葉に異論を唱える方もいると思うが90年代の日本のゲームは世界をリードしていたと思うので、間違いではないと思います。
海外からやってきた競技性の高いゲームに触れた一部の若手ゲーマーたちはそこに国内のストーリー中心のゲームにはなかったゲーム性や競技性に触れ、ハマっていったように思います。
そして、徐々に人口を増やしながら、PUBGなどの登場とブレイクにによって完全に市民権を得たように思います。正確に言えば、復権したように思います。
こうした若手のゲーマー達の思いとは裏腹にゲーム=物語という共通の認識を持っている一般層の人たちは、esportsと言われてもそれが何かよくわからないのではないでしょうか。
彼らの中ではゲームと言えばFFやドラクエであり、それが競技になるかと言えばなりえないでしょう。少なくともスポーツではないです。
日本におけるesportsの目指す道
一般層の理解が進まない競技性
こういう状況の日本において競技性の高いゲームが目指す道というのは、やはり解りやすさや公平性ではないかと思います。
一営利企業の作ったゲームが競技と言われても有利不利も含めて本当に公平に競技として成立するのか?
そういった基本的なところで理解が得られていないのではないかと思います。
使うPCの性能が多少違っても有利不利が発生しないようなわかりやすくゲーム性の高いゲームによる共通種目のようなものが必要に思います。
日本ではフェアでないものは人気が出ることはないと思うからです。
初期投資が高すぎる問題。
ゲーミングPCは当サイトでも紹介しているとおり、最低10万円必要です。
10万円というのはスポーツの初期投資としてはあまり高すぎる破格の金額であり、その上10万円のゲーミングPCでは大部分のゲームは満足にプレイできません。
海外では手軽さという点ではPC房(ネットカフェ)で競技性の高いゲームに触れられるのかもしれませんが、こちらも日本においてはネットカフェ=いかがわしい場所・不衛生な場所という認識が出来上がっており、イメージとして競技性を成立させるような場にはなりえないです。
チートを排除できない最新ゲーム
PUBGではすでに大問題になっていますが、チート(外部のツールなどによってプログラムを書き換えたり機能を追加してずるをすること)を行うプレイヤーが跋扈して大問題になっています。
こうしたズルを排除できない環境は競技としていかがなものかと思いますね。
ズルができる競技は競技ではありません。
大会ではズルはさせないと言っても、普段のゲームでズルが出来てしまうと一般層からの理解は得らないと言ってもよいでしょう。
スポーツは裾野にかかわる人たちはそのほとんどがお金を儲けているわけではありません。
スポーツを行うことによって社会性やスポーツマンシップを養い社会に貢献することを第一義としています。
そういった誇りが末端で競技をさえている人たちの原動力だと思います。
そこが遊びとスポーツの最大の違いだと思います。
勝てばよいとかゲーム内のレアリティが手に入るから金が儲かるからズルをするというのは遊びや仕事であり、競技ではありません。
ある意味一民間企業が運営しているが故に、公平性や公益性が担保出来るかできないかというのが発売元の企業の能力に依存し、常に担保されているわけではないという事実は大きなマイナスだと思います。
これで大手の企業にスポンサーになってくれと言っても到底理解は得られないでしょう。
最終的にはどこを目指すのか?
esportsが日本において最終的にどんな立ち位置を目指すにかによりますが、今のレベルではesportsを普及させるのは難しいと思います。
日本においてはいかがわしい場所から始まって、そのようなイメージがついている上にゲームにおけるマナーや公平性を語る人が極端に少ないからですね。
少なくとも私が読んでいるメディアでそのようなことを言っている関係者は一人も見たことがありません。
競技として社会に認知されるにはまず、フェアであることと、かかわる人たち一人一人がスポーツマンシップというものを体現していなくてはなりません。
単にゲームが上手いだけの若造の集まりでは社会から絶対に認知されることはないからです。
当然ですが、負けたらみっともなくキーボードやマウスを叩くような姿は絶対に見せてはならないし、そういう行動を取ったら厳しく処罰していくべきでしょう。
学生のサッカーや野球でスポーツマンにあるまじき態度を取れば厳罰が下されますが、そういう厳しさというものをesports業界の方は持ちうることができるのでしょうか?
私にははなはだ疑問です。なぜならesportsに関して論じている人も含めて、そのようなことを言っている人を見たことがないからです。
日本においてesportsが成立するにはこうした数々の問題を解決して、分かりやすく、戦略性などのゲーム性や競技性を理解してもらう必要があるように思います。
こうしたことは日本において競技性の高いゲームの空白期間が作り出した弊害と言えるのかもしれません。
今までのゲームの世界を作り上げてきた人たちが競技性の高いゲームの置かれた環境の「いかがわしさ」を最後まで排除できなかったことが日本におけるesportsの芽を摘んでしまった理由の一つなのかもしれません。
※ 私はesportsに積極的にかかわっているわけではありませんので、認識違いなどがあるかもしれませんことをお断りしておきます。